美しき世界


彼女の事はよく知らなかった。

ただ知らされたのは突然の死。

名門貴族の館に仕える者に相応しい美しく整えられた肌は、鋭い刃によって切り裂かれていたらしい。

傷口から滴る赤が、無念を表す様に強烈に臭い、其の姿は生前の艶を失い見るも無残なもので、

切り裂いた者の憎悪を顕著に表わしていたと聞いた。


『ルーク様が帰って来てくれて、私は本当にうれしく思います―――』


彼女の事はよく知らない。

ただ、屋敷という狭い鳥籠の様な世界の中で孤立していた自分の存在を肯定してくれた。

色褪せた朱を、偽物の緑の玉を綺麗だと賛美してくれた。

彼女の偽りない言葉や所作に、自らも悦を覚えそれを伝える為に、幼い頃母に貰った大事なものを、

己の眼に似た彩りの石を持っていてほしいと告げ、与えた。

壊れ物を扱う様な手付きでそれを受け取り、扱うその手が可愛らしくて。

愛おしく感じた。


今思えば、惹かれていたのかもしれない。


彼女のいないこの世界では、其の真偽も分からないが。


彼女と同じ場所にはきっと行けない己には、この感情も意味をなさないのかもしれないが。





笑むとき、優しく弧を描く其の瞳が、口元が、重き信頼を置く彼に少し似ていた。











「ルーク!!」

「ガイ!?」

ガイと再会したのは、彼がバチカルの屋敷から去った一月後。

宗教自治区にあたるダアトに世界の異変を知らせる為、訪れた際であった。

意図せず果たせた親友との再会にルークは心から悦び、ガイは彼のその態に優しい笑みを返した。


(あれ……?)


「どうしたんだ、ルーク?俺の顔になんか付いてるか?」

「あ、ううん。別に、なんでもねぇよ。それより、イオンに話があるんだろ」

ルークに先を促され思いだしたように、しかし威厳に満ちた様子で、新たに世界に訪れる危機の可能性を伝えるガイの姿は、

国の未来を担う優れた貴族のそれである。

親友の出世を悦びながらも、どこか置いて行かれたような寂しさをルークは感じていたが、

今思考の殆どをしめていたのは違う事柄であった。

幼い頃、それこそ自分が生まれた時から傍にある、全てを飽和してくれる様な笑顔。それは己のみに向けられる特別なものであった。

不安や恐怖に泣いた夜、ガイは何時だってその笑みと優しい体温で包んでくれていた。

それは成長した今も変わらず、あの罪の日を思い出し震えて眠れない夜はいつもその二本の腕を与えてくれた。

だから、ガイのその笑みはよく知っているはずなのに。

誰よりもたくさん見て来た筈なのに。

先程見たガイのそれは、初めて見るように感じたのだ。

優しく弧を描く口元も、暖かい情を秘めた碧眼も自分がよく知る大好きなものである筈なのに。

口元は歪んだように、澄んだ碧眼は空虚な印象をルークに与えた。

「ルーク、行きましょう」

(違う…そんなこと、ない……ガイは俺のことをそんな風には思わない…)

彼をよく知る者にしか、それこそ七年の付き合いがある自分にしか分らぬようなガイの変化を、

ルークは見て見ぬ振りをして仲間の呼ぶ声に応えた。





雨音に似た、地を水が打ち付ける音が室内に響き渡る。

ローレライ教団総本山のダアト教会内にある宿泊施設。ルーク達はイオンに招かれ今晩の宿をそこに取ることにした。

相部屋となった己の元使用人兼親友は今汗を流している。

室内に隣接する浴室からは絶えず、シャワーを使用する音が届き、静寂を破っている。

耳を傾ければすぐにその音に思考が奪われ、引き込まれていった。

(さっきの…ガイ、どうしたんだろう……)

そうやって自身の内に沈み込めば、先程からルークの中に浮き上がるのは同じ疑問ばかりであった。

その顔も体も声でさえも、仕草一つひとつまで、己のよく知る『ガイ』という人間を示しているのに。


『ルーク…』


あの己の姿を目に入れた瞬間、彼の碧眼が見たことのない色に変わった気がしたのだ。

一か月前まで確かにあった何かが、無くっているような気がした。

あの笑顔ひとつで、今の『ガイ』が己の知る『ガイ』とは全く違っているようにルークは感じるようになってしまっていた。

最初は気のせいかとも思ったが、笑顔が歪んだ表情に見えるのは今も変わらず続いている。

「ふぅ…」

思わず零した溜息に、揺れた髪から温度を失った水がぽたぽたと落ち、床に染みを作っていた。

それに誘われる形で己の足が付く地に視線が落ち、水跡を辿り、着いた先に在った旅の荷物の中にふと、

よく見知った何かがあるようにルークは感じた。

「……?」

何となしに気になり、目線を戻すとそこには無造作に口を開かれたまま放られている、ガイの旅荷物があった。

物持ちのよい彼らしく、それは先の旅でも愛用していたそれであった。

特に目新しいものでもないのに、ルークは瞬間それに目を、思考を奪われた。

正確には鞄にではない。

開いた口から覗いた鞄の底にあったものに全神経が奪われたのだ。

「なん、で…あれが……?」

寝台に預けていた身体を持ち上げ、激しく鳴ったマットレスには構わず、荷物に駆け寄る。

他人の荷物に勝手に手を触れることは不躾と知りつつも、ルークは上に重なるものを掻き分け先程見た色を探した。

そうして手に得たのは、一月程前己の手元を離れた碧い石だった。

この石を彼女に渡した際、納めた天鵝絨で装飾が施された木箱も同じ温度無い鞄の底に横たわっている。

「…あっ――!!」

空いていた方の手を何かに操られた様に、感情なくそれに伸ばし触れた時に気が付く。

彼女の笑顔を眺めながら、手渡した時には鮮やかな青を示していた天鵝絨が、今は黒く塗り潰されている事実に。

(これって…これって――!!…なんで、なんでガイが…!)

その箱から臭ったものは、間違い無く血であった。

そして少し前までこの箱の持ち主であった少女の死に様は、辺り一面を染めるほどの失血死である。

屋敷から出た彼女の遺品の中には、己の渡した翠緑玉もそれを収めていた箱も見つからなかったらしい。

では、ガイの持つこれは。

それが意味していることは恐らくひとつであろう。

背筋に思わず冷たいものが走る。それにここに居てはいけないという、警鐘が己の内に鳴り響いていることをルークは認識した。

そうだ、ここにいてはいけない。このままここにいたら何か嫌な事が起きる。知りたくない事を知ってしまう。

そんな確信がルークにはあった。

行動に移る為に咄嗟に腰を浮かせた瞬間。


「ああ…見つけちゃったのか…」


すぐ傍の背後からした己の親友である男の声に、なす術がなくなったことを知った。



ガイは心底楽しそうであった。背後に迫った彼は腕を伸ばしルークからその石と木箱を難なく取り上げ、

それを指で弄ぶっている。その様子は今にも鼻歌でも歌いだしそうなほどであった。

だが、ルークにはすぐに分かった。そのガイの態が決して陽の感情からきているものではないことを。

長年一緒にいる自分が見たことの無いガイが目の前にいる。

その事実は恐怖を助長するものに他ならなかった。それでも――――

瞼の裏を過ぎる、あの日の彼女の姿。

日の光を浴びて輝くブロンズの髪、輝く褐色の瞳。薄く染まった頬を彩る優しい笑顔。

永遠に失われたそれらに誓って自分が今、成さなければならない。

ルークはそう悟り、重き口を開けた。


「ガ、イ…それ……どこで、手に入れた…?」


そのルークの問い掛けに上げられた顔に張り付いていたのは、やはりあの空虚な笑顔であった。

「ああ、これ?知らないのか?これはお前付きのメイドから奪ったものだけど?」

命と一緒に。悪びれもせず淡々と語られる予想していた事実に愕然とする。

あまりに当たり前の様に話すガイの口調に「ああ、そう」などと一瞬返しそうになった自分にルークは吐き気を覚えた。

「素直に渡さないもんだからさ。ちょっと手こずって、汚しちまった。ごめんな?」

あまりに現実味に欠けた態度にこれが本当に現の事なのか疑いたくなる。

「あの女、大事にするってルークと約束したって言い張って、中々離さなかったもんだから…

ちょっと強引に切ったら予想以上に血が出ちゃったんだよ…」

だが、意識する事で強烈に香る、彼女の流した液体が、現実だと囁く。

それに気付けば、止められそうにない液体が眼から溢れ頬を伝っていた。

「ふっ、…うぅ…は……」

亡骸すら見ていないルークは、もしかしたら彼女が死んだことは夢ではないのか。

悪い夢なのではないのかとさえ思っていた。

甘い考えだと解りながらも、あの優しい人の、優しい笑顔がもう見れぬものだとは知りたくなかったのだ。

だが、眼の前にいる男の存在がそれさえも否定する。

子供の夢を壊すのは何時だって大人だ。

遠い昔この男が言っていたことの正しさを知る。

出来ることなら知りたくなかった、その事実を、突き付けられた。

胸が軋んだ。


「どう…して…、ど…うして、こんなことをっ!!」

いつの間にか、己の正面に立っていたガイに精一杯の勇気を振り絞り、非難の目を向ける。

そんな子供の虚勢をゆるりとかわし、向けるのは穏やかな色の視線であった。

手が顔に触れることによって、強くなったルークの震えにガイは気付かぬふりをして、

頬に残る水の軌跡に舌を這わし、塩辛いそれを舐め取る。

されるがままに固まった身体に苦笑を零しながら、さもそれが自然であるかのように興奮に紅く色付いた唇に己のそれを合わせた。


「お前が、悪いんだよ」

そう。お前が悪い。

そうして離れ際に愛おしい子供の疑問に答えてやる。

子供の疑問に答えを与えてやるのは大人の勤めである。そう思ったからだ。

「お前は、俺のものなのに。俺だけをその心に置く事が、お前の義務なのに」

その約束を破ろうとしたお前がいけないんだ。

あのメイドが命を絶たれた原因はお前にあるんだ。

そんな自分の勝手な毒のような思いを純粋で真っ白なルークに植え付けていく。

そうすることでルークは離れられなくなることを知っているから。

恐れて、もう二度と他者に深い思いを抱くことが出来なくなることを知っているから。

だからガイはあえてそうしたのだ。

「分かった、か?」

掛けられた言葉に、既に機械的に頷くことしかルークには出来なかった。その様にガイは満足気に笑むと、先程濡らた唇に再び口付けた。





受ける光が無いせいか。

いつもの輝きを持たない空色を間近で見ることは耐えられず、ルークは深くなる唇の交わりに沿うかの様にそっと瞳を閉じた。

そうすることで鮮やかになる、生きた彼女の日々。

きっと己が垣間見たのは彼女の生の内のほんの一瞬に過ぎない。

それでも、そんな僅かな間で、彼女は己の生の肯定と生きている悦びを教えてくれたのだ。

これは無くして初めて分かる、大きさなどではなかった。

無くす前から知っていたのだ。己の中での彼女の存在の大きさに。

ただこの感情に付ける名を知らなかったのだ。今なら分かるその感情の名を。


ああ。愛しかったのだと。あれは、間切れも無い恋であったのだ。


今なら、はっきりと口に出来る自身があるのに。

それを伝える相手がいない。


「愛してるよ…ルーク」


今はただ、眼の前にいる愛を語る男だけが、己の精神を現に留めるものとなっていた。

毒と知りながらも、絶望しない為にルークは狂ったそれを受け入れた。











ルークに狂って、ルークの初恋を潰すガイを書きたかったのですが…
いまいち表現出来ず。文章表現力が欲しいです。

2008.1.14