どんなことをしてでもいい。

あの時、照り注ぐ夕陽に、見守る仲間に見せた小さな背中に縋り付くべきであったのだ。

そうすれば、最期の時を彼女と共に迎えることが出来たであろうに。

死に、行く世界でもその愛おしい存在と共に在れたかもしれないというのに。

世界に等しい存在が発する光の中に消える彼女の姿を見つめながら、何もすることが出来なかった自分がいた。

ただ声にならない叫びを上げていた。





Silent love 1





『ありがとう』





「ルークっ!!」

汗ばんだ手を伸ばした先は、ただ薄闇が占める虚空の空間であった。

装飾の施されたガラス製の音素灯が、カーテンから差し込む僅かな月光に照らされ、

青く光っているのみの静寂な世界。

見慣れた国家の色である蒼白色に統一された家具が置かれた執務室兼私室。

そこで持ち帰った執務をこなし、いつも通りのひとりの夜を迎えたことを覚えている。

ただ常とは異質だったのは、己の心をかき乱す夢をみたという事実。

それは二年前にこの世界から姿を消した、己の二十数年の人生の中で唯一愛した女性を

初めて抱いた夜の記憶から作られたものだった。

手に残る白い柔肌の感触が、耳元で感じた吐息混じりの僅かな喘ぎが生々しく、

其れはガイに束の間の幻を現のものと錯覚させる。

それ程に記憶に強く焼き付き、鮮明で、ただただ愛しい一夜であった。



「…ルーク……」

その幻と解りつつも惜しい、温もりを逃さぬようにガイは強く拳を握り締めた。

そうして得られるものなど無いというのに。











「顔色が、優れませんね」

久しぶりに顔を合わせた嘗ての戦友からの第一声は、一応は己の健康を気遣うものであった。

だが不躾に推し量るような視線を向けて、何処かからかう様に上げられた口角を携える其の表情は

とても他者を心配している時に浮かべるものではない。

国家を表す色に染められた布地や調度品に彩られる、この国で最も高貴な者が住まう宮殿に隣接する軍部の中枢。

演習に向かう兵、各地の視察に赴く準備に勤しむ兵、水面下の調査に向かう密偵などの国家の運営に

不可欠な働きを行っている者達が多く行き交う廊下で、ガイはその何処か人を嘲った様なジェイドの緋色の視線を受けとめた。

瞬間、静かな蒼がきりきりと刺す様な気を発する。

それは嘗ての戦友に送るには相応しく無い、敵意に近しいものであった。

実戦を経て、命の奪い合いを知る兵士達が其のガイの不穏な空気を察知し、様子を窺うように足を緩め、目を向けている。

当然のことであった。

この軍の中枢という場は、殺気に似た空気を発し合うには、とても適しているとは言い難い。

ガイは再びジェイドに一瞥をくれると、背を向けて市街へと続く門の外へと歩を進めて行った。

その去った男の軌跡を辿る様に、ジェイドもまた其の道に足を踏み出した。







「まだ、忘れられませんか?」

不本意ながら、後を追ったジェイドがガイに追い付くことは簡単だった。

何の事はない。 彼は城門をぬけた直ぐ先にある市民の憩いの場、公園にいたのだから。

まだ昼の休憩が終わったばかりの時刻の為、当然公務は終わっていないはずだ。

多少不快な事が胸の内を満たそうとも、課せられた仕事を放りだし帰宅するような人格の男ではないと踏んでいたが、その通りとは。

つくづく律儀な男だと思う。

自分に背を向け座るガイの背に向かって、この一年間、幾度となく問い掛けた言葉を紡いだ。

其れに彼の肩が僅かに反応を示したことが分かる。

耳は働いているようだ。

「彼女は帰ってきませんよ?」

そして最も彼の癇に障る言葉と認識している、それを吐く。

途端、ガイが腰を下していた公園備え付けの椅子が激しく鳴り、気が付けば己の胸倉に掴みかかる勢いの彼が目の前にいた。

「言ったはずだ。二度と俺の前でそれを言うなと」

「私も言ったはずです。あなたが解るまで何度でも言います、と。彼女は帰ってきません」

視界の端に男の振り上げられた拳が見受けられたが、其れを避けようなどという愚かな事をジェイドはけしてしなかった。

それだけ自分の言っている事が責任の伴う重要な事だということも、正しいという事も認識しているからだ。

そしてその一撃を受けるということが、ガイにジェイドの言葉を肯定させた証であり、

『彼女』が彼の前にもう二度と姿を見せないという現実を知らせる、一歩となるからだ。

だが、ガイの作った拳はジェイドの頬を打つことなく空に留められたまま、やがてはゆっくりと虚空に下ろされていった。

ジェイドの存在などなかった様に、其の身の横を通り、城門への道を歩み出す。

その背は、愛しい者に似たのか最期に近付く彼女を何処か彷彿させた。

ガイに掴まれ乱れた襟元を正しながら、ジェイドはらしくもない、不安に近しいものを感じている自分を認識した。

「まだ…駄目ですか」

「ルークは、必ず俺の元に帰ってくる」

問い掛けた言葉に返ってきたのは、この二年間変わらないものであった。









まだ、大丈夫という思いがあった。

それは確信ではないけれど。ひょっとしたら、とても頼りないものなのかもしれないけど。

確かに其れは、在るのだ。

長い年月を越えた今も、自分の直ぐ傍に、触れられる距離に在るのだ。





『約束…だ』





あの日、あの朝焼けの中で見た彼女の笑顔にはくもりなどなかった。

嘘を思わせるものはなかった。

自分を包む二本の腕は、ただただ優しくて。その完璧な存在が少し怖かったけれど。

確かに彼女はここにいたのだ。

「ルーク…ずっと、ずっと待ってるから…」



だから。



彼女が傍にいない二年間、ずっと押し止めていた言葉が思わず零れそうになり、ガイは強制的に己の目を閉じ、

思考を停止させた。

そうして現れる、瞼の裏の愛しい少女の肢体に両腕を伸ばした。









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己の創る理想の世界への逃亡。

2008.3.26