『世界を守りたい』
Silent love 4
ルークの言葉が耳に届いた瞬間、先程までの穏やかな気持ちが嘘のように、己の内で何か激しい感情が湧き上がるのをガイは感じた。
其れは以前から存在しているものであると自覚している。
とてもじゃないが、良いのものとは言い難い其れに突き動かされる形でガイは腕を伸ばし、傍にある愛しい体躯を両腕で乱暴に掻き抱いた。
「ガイ!?どうしたんだ……んっ!!」
その男の突然の尋常ではない態にルークは驚き、反射的に振り解こうと抵抗を示し、口を開き抗議の言葉を紡ぐ。
そのルークの様に、ガイは五体を使い煩わしいとばかりに簡単に彼女の動きを封じ、罵りに似た言葉を発する唇に噛み付くように口付けた。
強引な其れにルークの柔らかな肌は耐えられず傷付き、唇の端から赤い鮮血が滲み顎を伝った。
(どうして…!!どうして、俺が傍にいるのに…お前は『世界』を見るんだ!!)
気が付いた時には抱えていた想い。
発散する方法が分らなかった其れは、今正に見つけた吐き出す方法に食らい付いた。
何のことはない。
彼女を、ルークを自分のものにしてしまえば良かったのだ。
丸い大きな瞳が驚愕に見開かれるのが見受けられる。
其の視線を真正面から受け止めるとガイは眼で自分の怒りを伝え、唇の繋がりを更に深いものへと変えた。
青々と葉が茂る山に響く、唾液を啜る音を森だけが聞いていた。
ルークの抵抗が全く見られなくなった頃、ガイは漸く唇を解放し、流れ出た血を舐め取り離れた。
呼吸を奪う長く深い口付けを終えた時、ルークの呼吸は乱れ、身体は脱力し立っているのがやっとの状態であった。
その様にガイは満足そうに口角を持ち上げ、笑む。
彼女の思考は、今、確実に己で満たされている。
そこに世界を憂う気持ちなど一欠けらも無いであろう。
その証拠に彼女の視点は動揺に、未ださ迷っている。
ルークの思考から『世界』を追い出せた事実を悦び、彼女の身体を支えようとガイが手を伸ばした瞬間。
ぱん。
頬を打つ乾いた音が辺りになり響いた。ルークを解放した事により空いた掌を自身の顔に当てると、其処はじんわりと熱を持っていた。
「ルーク…?」
「ど、うして…どうして!?なんで…なんでこんなこと!!」
上げられた顔はルークの涙に濡れていた。幾筋もの水の軌跡が上気した頬を辿り、夕陽に光っている。
「ひど、い…お前、…最低だよっ!!」
ガイの強引な口付けに、ルークは怒りを顕わに非難の声を上げていた。
だが、ガイは反応を返さなかった。いや、返せなかった。
何か己を軽蔑する言葉を愛しいその唇が発しているのは其の動きから分かる。だが、それが脳を感じとっているとは思えない。
彼女の声が、耳に届かないのだ。だから何を言っているのか分からない。まるで水中にいるような感覚にガイは陥る。
今のガイに分かることは、ルークの思考が今この瞬間、己でいっぱいである事実。
其れに満たされる心に、ガイは今まで心内に押し止めていた狂気を晒した。
「が、い…?」
一向に反応を示さず常とは異なるガイの態度に、怪訝な表情を浮かべてガイの正面にいたルークが見たのは。
今までに見たことがない、ガイの表情であった。
口角を上げたそれは一見笑っているように見える。
しかし、眼には光がなくこの七年間傍にあった時には見せたことない暗く濁った瞳をしていた。だが、見覚えはあるものだった。
そう。其の色は、彼があの忌むべき呪縛に囚われているときに見せたものにとてもよく似ていた。
だが、宿す感情が違うのか、あの時とは迎えた展開と今は状況が異なる。
次に何が起こるか、全く予測が出来ず、常にはないガイの発する空気に、戸惑いを隠せずうろたえるルークに男は止めの様な一言を発した。
「ルークが…欲しいよ……」
「な、に…言ってんだおま…え……?」
脳を直接揺さぶるような声色。ゆっくりと動いた唇に、発せられた言葉に最初何を言っているのか解せなかった。
だが、沈みゆく太陽により変わる景色に、これが現実だと認識付けられる。
ルークが顔を引き攣らせ、冗談だよなと呟く口元がガイの瞳に映った。
怯えるルークの様に愉悦を感じながら、更にガイは明確に言葉を紡ぐ。
「苦しいんだ…ルーク……。お前が欲しいよ……」
其れは呪いの言葉の様に纏わり付く。
ルークは危険を承知でガイに背を向け走り出した。ガイの力は自分より強く、その足は自分より早い。
彼が本気になれば、己を捕まえることなど容易いことだ。
それでも。
(嫌だ…!怖い……!!)
今あの場に身を置いているよりもずっとましだと思う。あの全てを絡み取る様な空気に、視線に一対一で立ち向かうよりは。
ルークは背後の見えない影にガイの存在に怯えながらも、重き楔を付けた様に縺れる足を叱咤し、仲間の待つ野営地まで駆け戻った。
「どうしたの?ルーク。そんなにあわてて…?魔物でも、いた?」
「あっ……」
ガイから逃げ帰った野営地には日常があった。
保存食を用い、作られた料理の香り。暖を取るために多くの木々がくべられた焚き火。
その周りにはすでに寝ずの番の者用の毛布も置かれていて。東の空には既に淡い黄金色の光を放つ月がいる。
「みんな、は…皆だよな…?」
「は…?どういう、意味?」
そこにある常の風景が優しい夢の様にあまりに懐かしく、暖かく感じて。
思わず聴き手には意味の解せない言葉を吐いてしまい、慌てて何でもないとルークは謝罪した。
(もしかして…さっきのあれが夢、だったのかな…?)
あの異常なガイの様があまりに常の彼と、現実の彼とかけ離れていた為、ルークはあれは己の生み出した幻想のものだったのではないかと思い始めた。
「それならいいけど…?それより、薪は?」
「あっ…それは……っ!!」
己に与えられた仕事のことがすっかり頭から抜け落ちていた。
それに情けなさと恥を感じ、顔を赤らめながら謝罪と今から引き返して取りに行く主旨を伝えようと大きく口を開いたときであった。
「やだ!?大丈夫?」
唇にあった裂傷が裂け、再び血が滲んだのは。顎を伝う液体に、先程の感触が思い出される。
ガイの、唇の感触。
ティア達の心配そうな声が遠くに聞こえ、顔が霞んで良く見えない。
まるで液状化している大地のような不安定な地にいるように感じ、足が折れ倒れそうになった時。
背後から力強い腕に腰を掬い取られ、強制的に姿勢を保たれた。それが誰のものであるかなど考えるまでもなかった。
鼻孔を擽るよく知る香り。
「大丈夫か、ルーク?」
心地良いテノールが己を気遣う言葉を紡ぐ。ほんの一時前までは、其れにこの上ない安心を感じていたのに。
「まったく。気分が悪かったなら最初からそう言ってくれよ」
いつもと変わらぬ声の筈なのに、其れは初めて聞いたものかのように鼓膜を敏感に震わせる。
「どうした?ルーク?」
「……あ………れ……?」
覗き込んできた顔には、日常があった。
目に映ったガイは、いつも通りの端正な顔に、いつも通りの己が好む優しい笑みを携えている。
「ガイ。薪になるものは集まりましたか?」
「ああ、この通り。この前の嵐で枝が折れたみたいでね。十分だよ。あと二、三回往復すれば全部持ってこられそうだ。
悪いが旦那、手伝ってくれるか?」
ルークは気分が悪いみたいだし。と続ける口調も常と同様のものであり、仲間との応対もいつものものである。
ガイの言葉に仕方ありませんねとジェイドが林に向かい、ガイは自分の元を離れ火の傍に薪を置いている。
ティアは口元の傷を確かめ、薬に手を伸ばし、アニス、ナタリア、イオンはルークの手当てをティアに任せ食事の配膳に取り掛かっていた。
辺りは夕闇に染まり始め、風が木々を撫ぜる音と巣に帰る鳥の鳴き声が響いている。
そう、常とは何も変わっていないのだ。
何も。
こうなると変わったのは、おかしくなったのは自分のみであり、ルークは先程のことが嘘に感じた。
「大丈夫。あまり深くない傷だから、すぐに塞がるわ」
顔がよほど情けなく歪んでいたのか。ティアが優しく労いの言葉を掛けてくれている。
それに思考が戻ってきた。
「ああ、うん。ありがとう」
多少引き攣ったかもしれないが、手当てしてくれた彼女に笑みを返し礼を述べる。
「顔に傷を付けるものではないわ。今度からは気を付けて」
そういって持ち場に帰っていったティアの背を見ながら、ルークは決意した。
(さっきのは、俺が作った幻…なんだ。この傷は自分で噛んだんだ……)
そうだ、きっとそうに違いない。だってガイは親友で。あんな事は絶対しない。
日常を失いたくなくて。
暗示をかける様に、ルークは必死に自分に言い聞かせた。そうする事で心が落ち着くのを感じる。
だが。
「さっきの事は悪かった、謝る。でも、無かったことにはさせないからな」
何かを押し殺したような声が、僅かな風と共に前方から背後に流れて行った。
慣れ親しんだものを基底に作られた、常より低い其れは誰のものか考えるまでもない。
耳元を掠めた小さな謝罪と事実を突き付ける言葉は、先程の白昼夢のような一時を現実のものだとルークに認識させる。
それに瞬間、強く震えた身体は闇により隠され、眼前の仲間に気付かれることはなかった。
背部で鳴った草木が、男の林への侵入を伝えた。
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今は想いを告げられない。
2008.4.2