「ルーク、おめでとう。」
目の前にいる男、ガイは寝台に身を預ける俺に目線を合わせ嬉しそうに笑んでいた。
「お前の胎には俺の子供がいるんだ」
今までに見たことのない様な満ち足りた笑顔を顔に浮かべ、楽しげに声を零す。
「こんなに早くできるとは思っていなかったけど…毎日あんなに愛し合ったもんな。
もう、お前ひとりの身体じゃないんだから、気を付けろな」
ガイの悦びを表す声が、表情が。
「お腹の子も大切だけど……俺にはお前が一番大事なんだから」
俺を奈落に突き落とすのは十分だった。
世界で唯ひとり君を愛す 4
最近何かがおかしい。
ガイに拐され、閉じ込められ、犯され。
自分の持てる全てを奪われた今、今更驚くことなど何もない筈なのに。
何故か僅かに感じる身体の疼きに、異変に。
常ならば感じる筈のない不安を与えられていた。
それが終末への序章の始まりに由縁するものだとは、この時霞ほどにも思っていなかった。
窓にはめられた格子から差し込む月光にルークは思考を奪われていた。
否。
実際には、闇夜を照らす月の色によく似た髪色を持つ男のことに思考があった。
狂気に満ちたあの男の今の様は、淡く穏やかな色には似ても似つかないはずなのに。
何故かそれはガイを彷彿させるものであった。
いや。幼い頃は、この非現実的な日常に陥る前はあの優しい光をよく彼に重ねていた。
バチカルの公爵家の屋敷に身を置いていた時、ガイの存在は孤独にあったルークにとって救いだった。
自分に一切の関心を持たない父、ただただ優しいだけの母。距離をもって接する使用人達。
そんな何もかも現実味を感じない世界の中でガイだけが、褒めて、怒って、笑って、泣いて。
愛してくれた。
ガイだけが、自分の世界に色を付けてくれたのだ。
だから、彼ほど信頼を置いていた人はいなかった。
ガイほどルークが愛した人はいなかったのだ。
彼と共に過ごせない夜の間は、淡い砂色の光に彼を見立てて寂しさを紛らわせた。
少し前まで当たり前に傍にあった彼の人と過ごした日々がとても懐かしい。
自分を満たしてくれる、唯一の人であった『ガイ』は奪われてしまったのだ。
他でもない、『ガイ』によって。
それがどうしよもなく悲しくて、自然と涙が零れた。
ルークはただ声も無く泣き続けた。
どのくらいそうしていたのか。不意に視線を向けている窓に掛けられたカーテンが揺れる。
どうやら、窓が完全に閉まっておらず、風が舞い込んだらしい。それに肌寒さを感じ、施錠も兼ねて窓辺へとルークは足を向けた。
瞬間、強い風が硝子を叩き、その夜の空気が部屋に入り頬を撫でた時だった。
「うっ…!!」
鼻先を掠めた夜風に感じたことのない嫌悪を覚え、喉の奥から込み上げるものがわいたのは。
それはとても耐えられるものではなく、ルークは手洗いへと駆け込んだ。
そうして流れに逆らわず胃液のみの吐瀉物を出す。
だが、吐き気が治まる様子は見られなかった。
嫌いなものや毒物を口にしたわけでもないのに。
ましては今晩は食欲が全く起きず、夕食に手をつけてもいないのに、消化器は未だ痙攣している。
「が…い……」
最近、身に纏わり付く倦怠感といい、感じたことのない嘔吐感は一体何なのか。
もしかして、自分は何かとんでもない病魔に侵されているのではないのか。
そんな不安が思考を占める中、その得体の知れない何かは自分から意識さえも奪っていこうとする。
まだ少女でしかなく、知識に乏しいルークは遠のく意識の中、救いを求めるように手を空に伸ばし、
昔も今も最も己に近しい場所にいる男の名を紡いだ。
乳白色の大理石の上に、淡い青白色の絨毯が敷き詰められた廊下を一人の男が歩む音だけが屋敷内に響いていた。
時刻はとうに真夜中を越え、起きているのは護衛の任に就いている最低限の私兵ぐらいである。
その例外としてこの屋敷の主人である伯爵、ガイの意識はまだ現にあった。
先程まで執務に追われ自室でそれを片付けていたのである。
屋敷からルークを浚った後、ガイはすぐにマルクトへ亡命し、ガルディオス伯爵家の遺児である証拠を示し爵位を取り戻した。
全ては計画通りに順調に進んだのだが、爵位を受けた後の忙しさまでは計算外であった。
思いのほか皇帝から重宝され、結果、重要な仕事が回される。
それをこなすには容易ではない。その為、最近では床に就く時間が夜半を過ぎることは珍しくはなかった。
与えられる仕事に文句はないが、この忙しさは頂けない。
おかげで最近、ルークと床を共にする機会がめっきり減ってしまっていた。
昼間、宮殿から抜け出す時間は無いし、夜中に訪ねて早寝の彼女を起こして抱くのは可哀想だ。
ガイなりにルークを気遣い、普段は我慢していたのだが、冬が近付くこの季節のせいか。
今夜はどうにも、あの愛おしい肌が恋しくて抑えが効かず、ルークの部屋に足を向けてしまったのだ。
抱こうとは思っていなかった。
ただ、あの甘い香りで鼻腔を満たし、肌を合わせ温もりを感じて眠りに入れたらよい。
そう思って囚われの姫が眠る部屋の前にガイは立った。
扉の取っ手に手を掛けながら、当然のように懐の鍵を探る。
そこに自然と手がゆく位、この部屋に錠が落とされているのは当たり前のこととなっていた。
飛べない小鳥が逃げ出さないようにするために。
ずっと、ずっと守ってあげるために。
「……?」
漸く、探り当てた鍵を鍵穴に差し込もうとした時だった。
扉を隔てた室内に、衣擦れの音を感じ、蠢く何かが居ることに気が付いたのは。
それは明らかな異変であった。
この時間だ。ルークが起きていることは考えられない。
己が気配を読み違える事は、まずあり得ない。在る筈のない気配が其処には確かにある。
「つっ…!!」
ガイの頭の中に最悪の出来事がよぎる。
この部屋は四階の角部屋であり、海に面していることから内部からの脱出はまず不可能である。
ルークの逃げる手段を奪う為に、彼女をこの部屋に宛がうのは必然であった。
だが、屋敷の本館から離れていることから警備が手薄になるのだ。
その為、外部からの侵入者には好都合の場所だった。
もしも、侵入者がいたら。
ルークの身に何が起こってもおかしくない。
そう認識した瞬間ガイは鍵を差し込み、激しい音を発て扉を開け放った。
「ルーク!!」
扉が開いた時に目に入った光景は、己が想像していたものとは全く異なっていた。
鉄格子がはめ込まれている、部屋唯一の窓が明け離れられており入り込む風に長く垂らされたカーテンが強風に煽られている。
ただそれだけのことであったのだ。
「ふう…」
暴かれた様子も無い格子に、少し神経質になり過ぎただけかとガイは息を吐くと窓に歩み寄りそれを閉める。
そこで漸く気付いた。寝台に居る筈の姿がないことに。
「つっ…!!ルーク!?」
瞬間ある種の不安に掻き立てられ、辺りを窺えば開け放たれた洗面所へ続く扉が目に入った。
ルークの行方が分かりガイは一先ず息を吐いた。
大方、何らかの気配や物音で自分の接近を感じ取り、逃げ込もうとしたのだろう。
己が招いたことだが、随分嫌われたものだとガイは珍しく嘲笑を零した。
そう先を期待されると、応える他はない。
疲れた身体に鞭を打ち、姫には今夜も己の下で可愛らしく鳴いて頂くか。
「ルーク様?そんな所に居られると、お風邪を召しになられますよ?」
この後の事を期待し、ルークが怯えを見せるようにガイはわざと敬語を使い、ゆっくりと洗面所へと歩み寄った。
それもルークの怯え泣く姿はいつも以上に儚げで美しいからだ。
その姿が久しぶりに見られると、ガイは先の行為を企みながら洗面所の前に立つ。
だが、そこで目にしたものは。
「ルークっ!!」
顔面に苦痛を浮かばせ、手洗いの床に倒れるルークの姿だった。
一目で尋常で無い事が伺え、先程の淫猥な思考など無かったことのように彼方へ追いやり、ガイはすぐさま倒れ込むルークに駆け寄る。
「ルーク、ルーク!」
「う……ん…」
声を張り上げ名を呼べば、淡い唇から呻きが漏れ息があることにガイは一先ず息を吐いた。
だが、即座に壊れ物を扱う様にルークの身体を掬い上げ、其の身を寝台に横たえると来た道に踵を返し、医者を呼びに走る。
羽の様に軽かったルークに不安が過ぎる。ここへ来てからルークの食は細くなり、食事を拒むことなどざらにあった。
そのせいで栄養状態があまりよろしくないのだ。
もし、命に関わるようなものであったら自分はどうすればいいのか。
やっと手に入れた大事な大事な宝物なのだ。
こんなところで失うつもりは毛頭無い。
その想いはガイを急がせた。
だが。
「ご懐妊なされております」
屋敷に常在する医師から告げられたのは、己の危惧したものとは全く異なるものであった。
それどころか悦ばしいことである。
これでルークを真の意味で自分のものにすることが漸く出来るのだ。
「時は満ちた、ってことか…」
待ち遠しかったその日が、もう間もなく訪れる。
計画の最終段階に入ったことを知り、ガイは細く笑んだ。

長い間放置していました(汗)
というか、この話あと1話くらいで終わりそうです。
なんでガイはルークの部屋の前に見張りを立てておかなかったのかを申しておきますと、
私兵の男を立たせておきますと、そいつに襲われる可能性があると思い、女でも四六時中
傍に居ると情が移り、ルークの身を不憫に思い脱走させると思った訳です。
それくらいガイには余裕がないということで。
2008.3.26